村山由香「放蕩記」を読んで思ったこと
村山由香さんの「放蕩記」を読んだ。
この小説、私が10代の頃なら主人公に感情移入しまくったんじゃないか。なぜなら私は映画「ピアニスト」を見て主人公に感情移入した経験があったから。(「ピアニスト」も厳格な母親に抑圧されて育ったピアノ教室のお話)
私が20代の娘の頃までは、確かに母親といまいちうまくいかない関係性があったし、息苦しさや抑圧、漠然と支配され続ける感じを抱えていたと思う。
うちはこの小説ほどに躾が厳しいわけではなかったが、娘にとって母親という存在はいつまでもしつこくついて回り、その視線からはなかなか自由にはなれないものだ。
この視線からようやく解放されたのは、私が上京してから、つまり母が私を物理的にチェックできなくなり、口出しができなくなった頃からだ。
それから結婚をして、私に娘ができてから、母親の気持ちを以前に比べてぐっと理解できるようになった。
この小説で描かれるような母親は、一般的には「毒親」と呼ばれるらしい。どういった部分がそう言われる所以なのか、より理解を深めるために書き出してみた。
・娘にきつすぎる躾をする
・金銭を与えず、自由にさせない
・性的なものを娘に触れさせるのを嫌い、いやらしいものとして扱う
・娘に張り合う
・自分の性的な話や愚痴を娘に聞かせる
・外面ばかり気にして、演技的に振る舞う
あたりだろうか。
それは確かに躾と言うには過剰すぎるように思うけれど、反面、自分自身が母親になって感じることは、同時にこのお母さんが非常に哀れでもあるということだ。
・才能があったのに、生かすことができなかった
・夫に長年浮気され、傷つけられ続けた
・家庭以外に自分のアイデンティティを見出せず、他に行き場所もない
・理解者であるはずの娘に味方になってもらえない
等々...。
「母親というよりは、“オンナ”であった」という独白があるが、今時の価値観ではそれはもう古いかもしれない。
少し前、女優の長谷川京子さんが、家に子供を置いて別居したという報道があった。
ニュースにつけられたコメントには「母親が8才と11才の子供を置いて出て行くなんて信じられない」とある一方で、「母親だって一人の人間」「父親なら何も言われないで、母親だけが言われるのはおかしい」といった擁護のコメントがそれよりもずっと多くついていた。
少し前なら母親が子供を置いて自由になりたいと願うことも、新しい自分の道を見つけようとすることも許されなかっただろう。
だんだん時代が変わってきて、母親が家庭以外の場所を見つけることも、自分らしく生きることも許されつつある。
「放蕩記」の母親は、母親に向いていなかったのかもしれない。
本当は家庭という小さい檻の中に閉じ込めらずにさっさと自由になるべきキャラクターだったのかもしれない。
長年夫が浮気をしていて、それにひたすら耐えるしか道がなかったあの時代の女性の無念さ、悔しさ、辛さ。
そこを「放蕩記」の主人公は最後まで理解できなかったようで、そこだけがひたすら残念だなあと思う。
***
ただこの小説はあくまでも主人公の視点から見た母親像が綴られているだけで、人はその関係性にいろんな感情を見出すことができると思う。
共感する人、共感できない人、主人公が幼稚っぽいと感じる人...いろんな反応があるだろう。そこにこの小説の意義を感じた。