自分のルーツを探る
録画していた、角野栄子さんの番組を見た。
少しだけど鎌倉暮らしのこと、角野さんのかわいいファッションなどが垣間見れるなかなか良い映像だった。
「もう一度海に入ってみる」というテーマがあって、なんか久しぶりの人に会ったみたいにささやかにはしゃいでいる角野さんの様子がなんか可愛かった。
海に入るーー角野さんにとってはそれはもう、大きな夢だったんだろう。
だから、それをいざ叶えるとなったら洋服を一揃え揃えて、靴も新しいものをつけて、撮影もつけて、、、かなり大仰だけど、80を超えたお年寄りにとっては、そんな簡単そうなことがなかなか簡単ではなくなっていく。
服を送った娘の存在がいるっていいな、と思った。
角野さんのチャーミングさは、たぶん娘に確実に受け継がれている。
チャーミングさ。
角野さんを表す言葉の一つかもしれない。
歳をとって、あんなにチャーミングに生きていられるだろうか。
それと角野さんは自分のルーツを大切にしていると思った。
それに、それをちゃんと育てる生き方をしてきているから。
それは家のインテリアとか服とか、髪型とかアクセサリーに全て表れている。
自分のルーツをおざなりにしていない。
そのことに感銘をうけた。
子育てやら、仕事やら、家のことやら、「自分以外の」ことばかりしていると、だんだん自分のことを見失っていく。
以前確かに好きだったことや、子供の頃の記憶や、大切にしていたはずのことをだんだん後ろに押しやって、現実的なことに退治する事ばかりになってしまうのだ。
それが、自分のルーツを失うことになっていくのだろうか。
たまたまちょうど、コロナ禍で変わった1年を振り返る編集者の人の動画をみた。
そこには自分のルーツ(集めたシールや可愛い箱)を振り返って確かめてみるシーンがあって、それは一瞬だったけどすごく大事なシーンに思えた。
ああやって、たびたび自分のルーツを振り返ってみることが、人にとっては大切かもしれない。
私だったら、何を振り返ってみるだろうか。
昔書いた、今捨てようか迷っているノートだろうか。
昔から置いている本だろうか。
またシールや便箋を集めてみようか。
確かにそれらは好きだったけど、今スペースのない部屋に住んでいて、優先順位で測るとそれらはいっそ捨ててしまうか迷うものだったけど。
だって物なんてずっとは置いておけない。
ミニマリストほどはいかなくても、合理的に生きるって、自分のルーツを捨ててしまうことにならないだろうか。
確かに自分の中に残っていると言われればそれまでだけど、意外と自分の中に残っているものなんてそんなになくて、記憶さえなくなればそれらは全て消え去ってしまうものばかりである。
たとえば自分の中の価値観というか、大事にしていたはずのものは意外にあっけなくなくなっていく。
昔の私は猫が好きで好きで仕方なくて、猫グッズを集めるくらいしていたはずなのに、今の私は動物嫌い。
集めていたシールは子供にあげてしまったし、便箋も。
本だって、いつかは大きな本棚にそれらを入れておこうと思って置いていたのに、今は電子書籍で十分だと思っている。
海に潜ることだって、いつか子供たちと一緒にダイビングや素潜りをすることが夢だったのに、今は海難事故のニュースを見るたび怖くなっている自分がいる。
そんなふうに、好きだったことは歳をとるにつれてあっけなく変わっていくらしいということが最近の私の発見。
子供を見てて自分のルーツをそこに見出すこともできるかもしれないが、悲しいが娘は私に似ていないと思う(夫は似ている、と言うけど)。
まだ小1だから、この先に類似を見出すことはできるかな、、、と希望を持っておくことにしよう。