子どものために、大人が変わる
今日、小野田寛郎(おのだ ひろお)さんのニュースをテレビで見ました。
小野田さんは、帰国後はブラジルへ移住して牧場を経営していたそうですが、あることをきっかけに、「小野田自然塾」を開き、青少年を相手に自然教室のようなものを開いていたそうです。
その教室を開くきっかけになったというのが、昭和55年に日本で起こった、子どもが親を殺した「金属バット事件」という事件。
小野田さんはその報道をブラジルで耳にし、「何かが子どもに起こっている」と、非常にショックを感じられたそうです。
昭和55年と言えば、私が産まれた年。 その当時は相当ショッキングな事件であったはずですが、今でも子どもが親を殺してしまったり、その逆や、また心中や虐待死などの報道をしょっちゅう耳にするこの日常で、いつしか「またか」と感じてしまうようになった自分がいます。
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小野田さんはテレビの映像で、「子どもに自主性がないのは、目的がないから」と仰っていました。
それを聞いて、「なるほど」と思いました。
が、目的がないのは、大人も同じである気がしました。
子どもがおかしいのは、明らかに大人もおかしいからだと思います。 大人が生きることを楽しめていないのに、子どもが楽しめるはずがない。 自分たちがとっくに楽しんでいないことに、大人自身が気づいているはずなのに、そのことに本当に向き合って、何とかしようとしている人が少ないような気がします。
これまでの生き方や価値観では、矛盾が生じる世の中になっているのに、これまでのやり方を変えようとしない大人たちは、思考停止状態になってしまっている気がします。
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実は私もその一人です。
日々の忙しさにごまかされて、自分の本質や、人生や、これからのことを本当にちゃんと見ているかと言われると、見ていません。
とりあえず働いて、お金を稼いで、貯金していれば大丈夫。
とりあえず結婚して、子どもを産んで、がんばっていれば大丈夫。
そう、この「とりあえず」とか「がんばっているから」というところで、思考が停止してしまっていて、辛いことがあっても、しんどくても、理不尽を感じていても、時々虚しくても、それは私が悪いから、私がワガママだから、と思い込んでしまっています。
だから、表面上では幸せそうに見えても、本質的には幸せを感じれていないーーー。
が、幸せでない大人が、子どもを幸せにできるはずがないですよね。
そのことに気づいて、私が一度立ち止まって、できること。変わるべきところ。
それを、このブログ内でも少しずつ考えていきたいと思います。